浄土宗 心光院

浄国寺について

広島の中心で平和を祈る

昭和20年8月6日、原子爆弾の投下によって、広島の街並は瓦れきと化しました。爆心地に近い浄国寺では一瞬の内に堂宇を焼失し、多数の尊い檀信徒の命を失い、寺を守った第20代實誉大信上人も犠牲となりました。荒涼とした焼跡には、ただ大いちょうがポツンとたっているだけで、遠く広島駅からも一目でそれとわかったといわれています。原爆の威力の凄さは、境内にあった六地蔵の御首のひとつが、寺から300~400メートルもはなれた土橋の電停の近くに飛んでいたことからも知られます。

戦後、隣接する爆心地一帯は、世界の恒久平和を祈る平和記念公園として復興されました。被爆72年目になる平成29年に浄国寺では、旧町名を刻んだ町民慰霊碑や、木柱慰霊碑、被爆六地蔵を多くの方にお参りしていただけるよう修復しました。また土橋町永代供養墓「あおそら」を築き、戦後合同供養墓で供養してきた遺骨を納めました。地域の被爆史を伝える祈りの場として、永らく大切に供養しています。

お念仏のみ教えのもとに長い歴史を継承しながら、開かれたお寺づくりをしています。

寺院の由緒

開山・短誉文慶上人と徳川家康公

浄国寺を開いたのは、真蓮社短誉文慶大和尚です。幼い頃、今川家支配下にあった駿河国内の知源院に住み、住持である知短上人の弟子となりました。知源院のすぐそばで、祖母の源応尼と共に身を寄せていたのは、幼少の竹千代君、のちの徳川家康公でした。竹千代君と文慶は、共にこの知源院で、知短上人から文筆の養育を受けました。二人は同じ師から学び、親しく過ごした「竹馬の友」だったのです。

浄土宗の篤い信者でもあった家康公がまだ戦国時代にあった頃、文慶上人は安芸国高田郡吉田村に一寺を建立します。その名は浄国寺、時は天正の頃(1573~)でした。やがて浄国寺は、慶長年間(1596~)に現在地の広島城下に移転して隆盛し、今日に至ります。天下人となった家康公は、のちに源応尼を追悼するため駿河の旧地に華陽院を建立し、文慶上人は華陽院住持を兼務しました。浄国寺に徳川家康公の遺品が伝来しているのは、こうした二人の交流の証です。

数百余年の歴史を伝えて

浄国寺は山号を無衰山、院号を古今院といい、中国浄土教の始祖・善導大師の晨朝礼讃の「浄国無衰変、一立古今然」(訳:浄土の世界は衰えることも変わる事もない。一たびその地に立てば今も昔もそうであることがわかる。)から採られています。

福島正則公のすすめにより吉田村から広島に移住しましたが、寺域はもともと毛利輝元公の別邸のあったところです。土橋町に町名変更になる前は「西地方町」といいました。また境内伽藍には江戸中期までの本堂がありましたが、火災で類焼しました。嘉永2年(1849)、第17代載誉法運上人が堂宇を再建し、観音堂、地蔵堂、鎮西堂、鐘樓堂等がありました。境内の大いちょうの樹は西地方町界わいの目印として有名でした。浄国寺の境内では大相撲の興行がしばしば行われ、大正3年には名横綱・常陸山の引退興行もありました。また延命地蔵の盆踊りは盛大なもので、多くの人が参集したといわれています。

年中行事

浄国寺の年中行事一覧

浄国寺では、四季折々にご先祖様をご供養します。有縁の皆さまが一堂に会してお念仏に触れられる機会です。

3月
春彼岸会本堂にて法話や新入学のお祝い
7月
お施餓鬼塔婆供養
8月
誓真さんまつり宮島名物しゃくしにゆかりのある誓真さん、
土橋町合同慰霊祭
9月
秋彼岸会百万遍数珠繰り、敬老のお祝い

法要

各種法要を執り行います。お電話またはFAXにてお申し込みください。
TEL 082-231-3024 FAX 082-233-8767

各種法要を執り行います。
土日・祝日の場合、お早めのご予約をどうぞ。

境内墓地のご案内

広島市内中心地の数少ないゆったりとした寺院墓地です。広電(市内路面電車)土橋電停から徒歩4分の立地です。
墓地の通路は平坦で歩きやすく、駐車場からは車イスでもお参りできます。
法要、各種儀礼は浄土宗の規範に従いまして浄国寺の責任において執り行います。

永代供養 あおそら

土橋町永代供養墓「あおそら」とくつろぎの庭

過去の宗旨は問いません。
どなたでもお申し込み頂けますので、
どうぞお気軽にお問い合わせください。

「あおそら」は、青空の下で、先立たれた大切な方々とお浄土に想いを寄せて祈ることができる庭園内の納骨堂です。浄土門で大切にしている浄土三部経では、阿弥陀仏や美しく素晴らしい極楽の情景が語られています。「あおそら」は極楽世界の象徴でもある蓮の花をまとう優しい佇まいで、浄国寺が永代にわたりご供養いたします。季節の花が咲き、心癒される先祖安住の地です。

本堂下のピロティーには、縁側やガーデニングチェアがあり、お参り後のくつろぎのひと時を過ごすことができます。

境内・館内紹介

本堂内陣/御本尊を中心に、吉田町浄国寺よりの、向かって左の法然上人像と向かって右の善導大師像

集いの殿堂とやすらぎの空間

戦後の復興から火災焼失を経て、平成21年に修復落慶した、浄国寺の堂宇をご紹介します。

ゆかりの人々

浄国寺墓地に眠るゆかりの人々をご紹介します。

  • 僧・誓真の墓

    宮島杓子を創案した人です。誓真は村上氏の子孫で、代々広島の大工町に住んで米屋を営んでいましたが、二十五歳の頃、宮島光明院に投じて僧侶となりました。彫刻の才があり、木魚や仏具等を作っていましたが、島民の生活を救うため琵琶の形からヒントを得て飯杓子を発案し、島の名産になりました。また誓真は島内の処々に井戸を掘り、石畳や石段を整備し、参拝者や島民を助けました。僧侶のお墓は卵形で卵塔といわれますが、特に誓真の墓塔は頂部が尖った長宝珠形をしています。「実誉至誠誓真大徳」寛政12年(1800年)8月6日歿と刻まれており、浄国寺に残る過去帳の記載と一致しています。

  • 銅蟲歴代の墓

    銅虫は独特な槌目模様を打ち出し制作する、広島の貴重な伝統工芸品です。創始者は細工師佐々木清氏で、号を銅蟲といいます。元和年間(1615~)、紀州より広島入りした浅野長晟公と共に移り住み、黄銅を叩いて種々の器具を製造しました。丹念な仕事と作品を大いに気に入った藩主から「銅虫」の称号を賜ったともいわれます。佐々木家の初代から十代までが浄国寺墓所に眠っています。

    写真 : 銅虫作品/
    蓮の葉盆に南瓜の器

このほか、画家・中井泰嶺のお墓や、宮崎木鶏翁のお墓もあります。陽当たりの良い明るい墓所ですので、ゆっくりお参りいただけます。

左 : 見る色は皆真の色、聞く音は悉く法の音西方遠しと謂う莫かれ、
唯だ十念の心を須いよ 三縁山弁匡上人(増上寺第82世法主)

右 : 浄国寺伝来の長大な百万遍数珠
御念仏で皆が繋がります。長さ約20m/浄国寺第23代・浄誉明信と

交通のご案内

平和記念公園からほど近く、市内中心地にある交通の便が良い場所です。

浄土宗浄国寺
〒730-0854 広島県広島市中区土橋町2-4
TEL 082-231-3024 FAX 082-233-8767
広電をご利用の場合
土橋電停出口から徒歩約5分・小網町電停出口から徒歩約6分
(本川町電停出口から徒歩約7分)
バスをご利用の場合
河原町バス停から徒歩6分
車でお越しの方
JR広島駅 より車で約15分
※駐車場(10台)、近隣にはコインパークもございます

舗装していますので、水はけが良く雨天のお参りも可能です。バリアフリー設備として、本堂へのスロープ・車椅子で利用いただけるトイレをご用意。駐車場からは車椅子でもお参りいただけます